日々の気になったことや仏教についての話など。


by namazunahi

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何が問題?

自分の好きなこと、嫌いなことがハッキリしてる人は人生の明確な問題が次々出題されるが、自分の好きなこと、嫌いなことがハッキリしてない人は人生の曖昧な問題が一つ出題される。
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by namazunahi | 2007-11-30 19:48

怒られない

怒るまえ、怒っているとき、怒ったあと、どれも本人は苦しいものです。
だから、他人に同じ苦しみを与えないように怒られなくても分かる性格、他人に嫌な思いをさせない性格を目指す。
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by namazunahi | 2007-11-29 01:33

清らか

清らかな心で生きたいなーと思っても、本当はそう思ってないのがまた心であります。
心のベースに怒り、欲、無知があるかぎり、不純な心でいたいという思いから抜け出せない。
仏教ではその不純な思いが出たらただ気づき、その瞬間、瞬間、離れる訓練を積み重ねます。
「清らかな心で生きたいな」という思いも、不純な思いがあることに気づいていく。
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by namazunahi | 2007-11-24 03:49

観察

自分の感情を観察できてくると、相手の感情の状態も観察していきます。
相手が今、欲の状態か怒りの状態か無知な状態か。
相手が何を見て欲が出るか、怒りがでるかを観察していき、自分の感情の変化と相手の感情の変化の普遍性を発見することで心の法則をとらえていきます。

仏教では自分の心だけを観る分けではなく、他の生命の心も観ていきます。
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by namazunahi | 2007-11-22 17:47

選択

子供が悪さをしたときに怒って注意するのも一つの選択だし、明るく冗談まじりで注意するのも一つの選択。
ようはそのときの状況で、一番良いと思われる方法を自分の意思で選択してるかというのが一番重要。
ただ感情に流されるだけで自分の意思がそこになければうまくいかないものです。
そのためには、自分の心が冷静でおだやかでなければいけませんが。
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by namazunahi | 2007-11-21 22:20

怒られる

年をとればとるほど怒られることは少なくなります。
でも、自分の人格が成長した訳ではない。
年下の人は年上の人に怒るのは難しいですからね。
だから、年を重ねて人格が成長してないと煙たられるだけか無視されるか。
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by namazunahi | 2007-11-21 06:09

倍率

瞑想修行によって心の観察能力が上がると自分の感情もよく観れるようになります。
まるで顕微鏡の倍率が上がっていくかのように。

だから、心に憎しみや怒りや嫉妬や落ち込みや悩みが出てても直ぐに離れれる分けです。
汚い便所に顔を近づけるのは誰しも嫌なものですからね。

逆に良い感情が心にでたら、今まで以上に堪能できるわけです。
美しくいい香りがする花に顔を近づけるかのように。
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by namazunahi | 2007-11-20 05:32

見守り

小さなこどもは母親が絶えずいないと不安んですが、段々成長してくと母親がいなくても平気になります。
これを世間的には自立といいますね。

宗教を信仰して救われたという人は、子供が母親に見守られて安心するように、神に見守られて安心感があるんでしょうね。
誰か愛してくれる人が見守ってくれるから、勇気がでて難問にもチャレンジできるわけです。

さて、仏教では神を信仰しませんし、お釈迦様は涅槃に入られたので誰も見守ってくれません。
じゃ、仏教徒たちは何で子供が母親に見守られるような安心感をえるのでしょ?
それは自分で自分の心を見守ることによって得ます。

自分の心を絶えず見守ることで、不安定なこころがまるで母親に見守れれる子供にように、安心し元気いっぱい明るくなります。
逆に見守りがおろそかになると、心は不安になり暗くなります。
だから、怠けることなくたえず見守ってないといけないわけです。

仏教とは神(親)から自立するための教えとみてもいいかもしれません。
いつまでも親から自立しないと色々問題がおきますしね。
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by namazunahi | 2007-11-10 05:59

よいこころ

元ヤンのさあやんから「よいこころ」についての記事を涙のリクエスト(その頃は幼稚園ぐらいかな?)してくれたので書いてみたいと思います。

何が良くて何が悪いかは、人や時代、そのときの状況によっても変わってきますね。
戦争中なら、敵兵を平気で殺せる心は良い心ですし、やりたい男からみればやらしてくれる子の心は良い心、宗教家からみれば何も疑いもなしに信じる心は良い心、先生や親からみれば口答えなく何でも素直に聞いてくれる子は良い心、商人から見ればポンポン物を買ってくれる人は良い心の持ち主となります。

でも、これらの心は視点を変えると「よいこころ」の持ち主とはいえませんね。
世間の言う良いというのはあまりあてになりません。
どうしても欲、怒り、無知が根底にありますから主観的になります。

ところで、仏教ではこの欲、怒り、無知を貪瞋痴とよんでます。
この貪瞋痴が消えて客観的になった状態を仏教では「よいこころ」となります。
この状態を不貪、不瞋、不痴とよんでます。

怒りの反対で愛としないでただ不を足すところがみそですね。
愛と書くと、愛ってなんじゃい?と分からないですし、愛ってわからないから実行が難しいですね。

これが不瞋だと怒りがない状態ですから、誰でも体験できるし分かります(二十四時間怒ってる人はいません)
例えば、怒って料理を作ると色々失敗する可能性はありますが、怒りがない落ち着いた状態で料理を作るなら失敗なくできますね。

仏教では貪瞋痴がある心をわるいこころ。
不貪、不瞋、不痴の状態がよいこころ。
で、誰でも貪瞋痴と不貪、不瞋、不痴どっちが「よいこころ」かを自分で体験によって確認できるわけであります。

ちなみに不貪、不瞋、不痴は善行なので、この状態でいることでどんだけでも徳がつめます。
例えば、百個のものをみて欲が生まれなければ百の善行をしたとなるわけです。
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by namazunahi | 2007-11-08 23:58

一体

何かに一点集中し集中状態がたかまると、光が見え出したり、体が軽くなったり、偉大なる何かに体が包まれたりという俗に言う神秘体験を経験します。

一般の宗教では、この一点集中(サマーディ、三味)状態で得た体験を元に宗教を作っていきます。
宗教とかの本を読んでるとこの神秘体験を悟りとしてるのが多いですね。
偉大なる神と一つになったとかいうあれです。

仏教ではこの神秘体験をしてる時にみたものは、神であろうがゴハンであろうが同じ妄想であると言い切ります。
まあ、ごはんと一体になろうという人はあまりいないでしょうが。

仏教はこの神秘的一体感が起きても、ありのままに観察することを求められます。
明晰な意識で無常、苦、無我を観察するわけです。
でないと、この神秘体験を絶対的とみなして依存状態になってしまいますから。
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by namazunahi | 2007-11-06 02:16